松井館長の閑話休題

稽古に当たって自分自身を鍛えるにしても、また社会においても大切なことは、自分のやりたいことを繰り返すことではなく、自分自身が今やるべきことは何なのかを考えて実行することである。身体能力や運動神経というけれども、これらは常にその人の意識の方向性に大きく左右されるものだ。

人間というのは万人が同じ能力を持っている。どういう能力かというと反復することは必ず身に付くという能力である。これは正しい方法でも間違った方法でも、反復されたことは必ず身に付くということである。だから運動神経や身体能力というのは、それをいかに反復するかという根本的な問題に起因する。そうであるならば自分の強いところや弱いところ、長所短所、得手不得手、そういったものを客観視した上で、そのときの自分自身を取り巻く状況などを大きく俯瞰しながら、何が問題であるかということを掘り下げながら、反復の方法の良し悪しを見極めるところですべての才能というものは開花するのだ。才能というものは、持って生まれたものではなくて、鍛えられるものである。

コップは上から見れば丸いけれども、横から見れば四角い。同じものでも違う角度から見れば全く違う形に写るということからも、物事を俯瞰して客観視する重要性が分かるだろう。
そのように自分自身を客観視すれば、全く知らない自分が現れる。そのときに他人の意見を聞き、参考になる話や出来事を自分で学びながら、あるいは道場にある鏡を自分で見ながら、実際にいろいろなことを試みる。組手をやったり、ミットを叩いてみたり、試割りをやったり、千本突きや千本蹴りをしてみたり、そういうことも自分自身の知らない自分を知るためにやってみる。これは自分自身を追い込みながら、自分の知らない自分を掘り起こすためにする作業になる。
また社会においても同じことが言える。物事を俯瞰して、自分を客観視して、その時々で自分が出来ること、またはやるべきことをしっかりと掴み取ることが、将来自分が得たいものを得る手段になるのである。目先のやりたいことを繰り返すことの中に、自分がなりたい姿はほとんどないと言っていいだろう。そう考えれば、自分自身がやるべきことというのは、将来自分がなりたい姿から今の自分に逆算して、今自分は何をすべきなのかということが導き出されるのだ。
物事は、常に俯瞰し自分を客観視しなければいけない。稽古においても社会においても、全てにおいてそのことは当てはまるのだ。

さらに「表と裏」「正と濁」ということも重要である。
例えば正拳突きでいえば、突く正拳と引く引き手は一つの表と裏だ。突く手が表だとしたら引き手は裏である。表面的に突いていく手だけでは効力を成さないのはなぜかと言えば、裏にある引き手が表を支えているからなのだ。
人間は、前後・上下・左右のバランスで立っているが、前後のバランスが崩れても立っていられないし、左右、上下が崩れても体を支えられない。これも一方に対して一方が裏ということになるし、例えば組手において攻撃力を発揮したときには必ず防御できない隙が生まれてしまう。これが攻撃を表とするならば、防御できない隙は裏である。

物事には必ず「表と裏」、いわゆる「陰と陽」というものが生じている。この両方をしっかりと把握した上で、陽を活かす陰があり、表を活かすような裏があるということを知って稽古しなければいけない。
空手の稽古は、常にその延長線上で社会生活に置き換えて考えられる。我々は何のために空手の修行をするのかと言えば、その人それぞれの家庭や会社や学校など社会生活の中における自分自身の生き様を構築するためである。そのために武道を学び、そこから初めて志や夢、目標を達成するための方策、言い方を変えれば戦略や戦術が生まれてくる。
空手の修行を進めていくに従って自分はいかに生きるのかということを考えることが最も大切なことになっていくのである。

国際空手道連盟 極真会館
館長 松井章圭