用語集

新着用語

国際青少年空手道選手権大会
2005年より毎年4月に開催されており、5歳から17歳まで世界各国から選手が一堂に会して、組手と型の2種目で、年齢や体重などカテゴリー別に分かれて優勝を争う。 毎年1000人近い選手が参加し、規模としては国内最大級の空手の大会である。
壮年国際空手道選手権大会
35歳以上の選手を対象に2001年に第1回大会を開催し、過去に3回行われている。35歳~39歳の部、40歳以上の部はウェイト制で軽量級(70kg以下)、中量級(80kg以下)、重量級(80kg超)の3階級に分かれ、特選無差別の部は35歳以上の全日本大会、もしくは世界大会に出場した選手を対象に体重無差別で争われる。
全日本ウェイト制空手道選手権大会
毎年初夏に大阪で開催され、階級は軽量級(65kg以下)、 中量級(75kg以下)軽重量級(85kg以下)、重量級(85kg超)の4階級で、秋に行 われる体重無差別の全日本選手権への登竜門として定着している。
大山倍達
国際空手道連盟極真会館創始者。
1923年6月4日生まれ。

幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。

1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し、下山した1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死。1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い空手をアピール。その間、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げ7戦全勝。その後も度々世界各国を歴訪し、演武と指導を行い空手を世界に広める。

1964年、国際空手道連盟極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。

1994年4月26日、肺癌のため急逝。享年70歳。
一撃
極真空手のテーマである「一撃必殺」「一撃必倒」からきた言葉で、1997年7月のK-1にフランシスコ・フィリォがデビュー戦でアンディ・フグを右フック一発でKOした際に、その"一撃必殺"の勝ち方とセコンド陣が来ていた背中に大きく『一撃』の文字の書かれたTシャツが話題となり、テレビなどで大きく報じられた。以来、『一撃』は極真とフィリォのトレードマークになった。例えば、大山倍達総裁時代の極真空手の代名詞が『地上最強』ならば、松井章奎館長時代はこの『一撃』がそれに匹敵すると言えよう。
ソ連ウクライナの演武会
1990年5月、ソビエト連邦ウクライナ共和国の首都キエフにて武道フェスティバルと称する様々な格闘技の演武会が開催され、極真空手も日本から約20名の代表団が遠征し参加。3日間合計6回にわたって型や試割りなどのデモンストレーションが行われ、毎回3千人を越す熱狂的な観客の声援に応えた。また、フェスティバルのハイライトは組手試合で、3階級で日ソ対抗戦が実現。後に世界大会に出場するクレメンチェフ、フェセンコ、ベキシェフらが出場した。
百人組手
一人で百人の相手と順番に組手を行う連続組手。柔道の20人掛け、30人掛けからヒントを得て若き日の大山倍達が試みたのが最初といわれる。完遂者は松井章奎館長、フランシスコ・フィリォら数名の限られた者しかおらず、極真空手最大の難行苦行である。2009年3月には総本部正指導員のアルトゥール・ホヴァニシアンが挑戦。
アサヒICHIGEKI
アサヒ飲料株式会社と極真会館が共同開発したスポーツ飲料。「気合い系スポーツドリンク」のキャッチフレーズで爆発力と持続力の向上をコンセプトに、フランシスコ・フィリォなど極真選手が試飲して実際にアドバイスしながら開発された。アミノ酸(アルギニン、BCAA)、カルチニン、マルトデキストリンを成分に含む。2006年6月に発売され、レモン味が好評で現在も発売中。
Ichigeki PLAZA
「心・技・体のトータルサポート」をテーマに2005年10月に東京・渋谷区にオープンした施設。空手道場(本部直轄恵比寿道場)、キックボクシングジム(一撃アカデミー)、フィットネスクラブ、リラクゼーションルーム、エステルーム、カフェ等、様々な設備が整っている。JR渋谷駅新南口から徒歩10分、JR恵比寿駅西口から徒歩7分、住所は東京都渋谷区東2-16-9。
磯部清次師範
極真会館国際委員。極真会館南米地区責任者。極真会館ブラジル支部長。1948年2月29日、福井県出身。1968年に極真会館に入門し、総本部内弟子生活を経て、72年10月に大山総裁の命令でブラジルにわたり、以後30年以上にわたって南米で極真空手普及に尽力する。チューブトレーニング、滑車式サンドバッグなど稽古方法も独特の創意工夫を凝らし、フランシスコ・フィリォ、グラウベ・フェイトーザ、エヴェルトン・テイシェイラを手塩にかけて育てた。現在も極真会館の重鎮として組織の発展と後進の育成に力を注いでいる。
エヴェルトン・テイシェイラ
2007年第9回世界大会チャンピオン。1982年2月13日、ブラジル・サンパウロ出身。9歳で極真会館ブラジル支部に入門し、15歳から選手として大会に出場。フランシスコ・フィリォ、グラウベ・フェイトーザら偉大な先輩たちと稽古をともにし、2001年オールアメリカン大会優勝でブラジル第3のエースに急成長。その後、磯部清次師範とマンツーマン特訓を開始し、03年第8回世界大会3位、05年第3回世界ウェイト制重量級優勝、07年第9回世界大会優勝とステップアップしていった。08年4月よりK-1に出場。08年K-1GPファイナリストの実績を残す。
関東錬成大会
関東地区の選手育成のため、1998年に毎年春と秋に実施されてきた選手権大会で、カテゴリーは幼年から一般・壮年におよぶため、参加人数は800 人~千人にのぼる大規模な大会。現在は、一般部の全関東大会と統合され、7月(東京)と11月下旬~12月初旬(茨城・水戸)の年2回開催されている。

あ行

大山倍達
国際空手道連盟極真会館創始者。
1923年6月4日生まれ。

幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。

1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し、下山した1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死。1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い空手をアピール。その間、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げ7戦全勝。その後も度々世界各国を歴訪し、演武と指導を行い空手を世界に広める。

1964年、国際空手道連盟極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。

1994年4月26日、肺癌のため急逝。享年70歳。
一撃
極真空手のテーマである「一撃必殺」「一撃必倒」からきた言葉で、1997年7月のK-1にフランシスコ・フィリォがデビュー戦でアンディ・フグを右フック一発でKOした際に、その"一撃必殺"の勝ち方とセコンド陣が来ていた背中に大きく『一撃』の文字の書かれたTシャツが話題となり、テレビなどで大きく報じられた。以来、『一撃』は極真とフィリォのトレードマークになった。例えば、大山倍達総裁時代の極真空手の代名詞が『地上最強』ならば、松井章奎館長時代はこの『一撃』がそれに匹敵すると言えよう。
アサヒICHIGEKI
アサヒ飲料株式会社と極真会館が共同開発したスポーツ飲料。「気合い系スポーツドリンク」のキャッチフレーズで爆発力と持続力の向上をコンセプトに、フランシスコ・フィリォなど極真選手が試飲して実際にアドバイスしながら開発された。アミノ酸(アルギニン、BCAA)、カルチニン、マルトデキストリンを成分に含む。2006年6月に発売され、レモン味が好評で現在も発売中。
Ichigeki PLAZA
「心・技・体のトータルサポート」をテーマに2005年10月に東京・渋谷区にオープンした施設。空手道場(本部直轄恵比寿道場)、キックボクシングジム(一撃アカデミー)、フィットネスクラブ、リラクゼーションルーム、エステルーム、カフェ等、様々な設備が整っている。JR渋谷駅新南口から徒歩10分、JR恵比寿駅西口から徒歩7分、住所は東京都渋谷区東2-16-9。
磯部清次師範
極真会館国際委員。極真会館南米地区責任者。極真会館ブラジル支部長。1948年2月29日、福井県出身。1968年に極真会館に入門し、総本部内弟子生活を経て、72年10月に大山総裁の命令でブラジルにわたり、以後30年以上にわたって南米で極真空手普及に尽力する。チューブトレーニング、滑車式サンドバッグなど稽古方法も独特の創意工夫を凝らし、フランシスコ・フィリォ、グラウベ・フェイトーザ、エヴェルトン・テイシェイラを手塩にかけて育てた。現在も極真会館の重鎮として組織の発展と後進の育成に力を注いでいる。
エヴェルトン・テイシェイラ
2007年第9回世界大会チャンピオン。1982年2月13日、ブラジル・サンパウロ出身。9歳で極真会館ブラジル支部に入門し、15歳から選手として大会に出場。フランシスコ・フィリォ、グラウベ・フェイトーザら偉大な先輩たちと稽古をともにし、2001年オールアメリカン大会優勝でブラジル第3のエースに急成長。その後、磯部清次師範とマンツーマン特訓を開始し、03年第8回世界大会3位、05年第3回世界ウェイト制重量級優勝、07年第9回世界大会優勝とステップアップしていった。08年4月よりK-1に出場。08年K-1GPファイナリストの実績を残す。
大山倍達総裁十年祭
大山倍達総裁没後10年にあたる2004年4月25日、東京・池袋のホテルメトロポリタンで行われた故人を偲ぶ催し。生前、大山総裁とゆかりのあった方々、松井章奎館長をはじめ極真会館関係者ら約200 人が列席した。
大山カップ
ロシア極東の都市ハバロフスクで毎年5月に開催される体重無差別の選手権大会。第8回世界大会で準優勝したセルゲイ・プレカノフが2001年の同大会で優勝。2001年には木立裕之がベスト8に入賞するなど、日本選手が招待選手として招かれることも多い。
オールアメリカンオープン大会(アメリカズカップ)
北米、南米を含むアメリカ大陸チャンピオンを決定する体重無差別の選手権大会で、毎年9月(世界大会など秋に国際大会がある場合は6月)に米国ニューヨークで開催される。特にブラジルの強豪選手が多数参加することから、世界大会や全日本大会に次ぐレベルの高い大会である。これまでグラウベ・フェイトーザ、セルジオ・コスタ、エヴェルトン・テイシェイラ、アンドリュース・ナカハラ、エドアールド・タナカらブラジル勢が歴代優勝者に名を連ねて王座を独占していたが、昨今はヨーロッパ勢の活躍が目覚しく、ブルガリアのザハリ・ダミヤノフが2009年&2011年大会で優勝している。
映画『地上最強のカラテ』
大山倍達・総指揮、梶原一騎・総監督で製作された1975年第1回世界大会の記録映画。ブルース・リーを発火点として世界中に巻き起こった"カラテ映画ブーム"の真っ只中である1976年5月に封切りされ、空前のヒットとなった。以後、1976年12月に『地上最強のカラテPART2 』、1980年1月に第2回世界大会の記録映画『最強最後のカラテ』を公開し、いずれも大ヒットを記録。"地上最強"は極真カラテのキャッチフレーズになった。
オープントーナメント全世界空手道選手権大会
『空手世界一』を決める4年に一度のカラテ・オリンピックで、極真空手最高峰の選手権大会。1975年11月に、世界36ヶ国128 名が参加して第1回大会が開催され、会場の東京体育館は超満員の観客で溢れた。回を追う毎に規模が大きくなり、現在は世界各地の予選を勝ち抜いた200 名前後の選手が出場し、3日間にわたってトーナメント方式で優勝者を決める。歴代優勝者である中村誠、松井章奎、フランシスコ・フィリォ、木山仁、エヴェルトン・テイシェイラをはじめ、ウィリー・ウイリアムスやアンディ・フグ、グラウベ・フェイトーザ、アレキサンダー・ピチュクノフなど、その時代を象徴する優れた格闘技選手が活躍する舞台である。
オープントーナメント全日本空手道選手権大会
毎年秋に極真会館が主催する『空手日本一』を決める国内空手界最高峰の大会で、全国各地の予選を勝ち抜いた選手や海外からの招待選手など128 名が集い、2日間にわたってトーナメント形式で優勝を争う。

大山倍達総裁が1969年9月20日に東京体育館にて第1回全日本大会を開催。この大会が画期的であったのは次の3点。

空手試合のオープン化:従来の一流派の大会の枠を越え、多くの修行者に門戸を開き、共通のルールの下で力を試す場としたこと。
試割り試合:試割りを競技ルールを作り、各選手の力量を正当に比較できるようにしたこと。当初の大会では競技は組手部門と試割り部門に分かれており、その両方で優勝した者が総合チャンピオンとなった。
組手試合の迫真化:従来の寸止め試合ではなく、世界で初めて直接打撃制ルールを採用。
第1回当時の精神・理念は21世紀の現在も連綿と受け継がれている。
大山道場
野天道場では手狭になったため、1956年6月、東京・西池袋の立教大学裏にある榎本バレエ団の練習スタジオを借りて週4回の稽古をスタート。これが『大山道場』である。ただし、大山倍達は自身の稽古や海外でのデモンストレーションなど多忙で、実際の指導は大学の空手部の主将でもあった安田英治、石橋雅史らがあたった。最盛期は門弟300 人を越えたといわれ、この道場から、大山茂・泰彦、郷田勇三、中村忠、藤平昭雄、加藤重夫、芦原英幸、添野義二...といった数多くの伝説的空手家が生まれ育っていった。

か行

国際青少年空手道選手権大会
2005年より毎年4月に開催されており、5歳から17歳まで世界各国から選手が一堂に会して、組手と型の2種目で、年齢や体重などカテゴリー別に分かれて優勝を争う。 毎年1000人近い選手が参加し、規模としては国内最大級の空手の大会である。
関東錬成大会
関東地区の選手育成のため、1998年に毎年春と秋に実施されてきた選手権大会で、カテゴリーは幼年から一般・壮年におよぶため、参加人数は800 人~千人にのぼる大規模な大会。現在は、一般部の全関東大会と統合され、7月(東京)と11月下旬~12月初旬(茨城・水戸)の年2回開催されている。
極真ワールドカップ
全世界を地域別に別けてチームで覇を競う団体戦の通称。各チームから軽量級・中量級・軽重量級・重量級・無差別級の5名の代表が出場し各階級ごとに勝敗を決める。1998年4月に第1回大会がフランス・パリで開催されて好評を博し、2002年11月に第2回大会がブラジル・サンパウロで開催された。第1回大会は日本が空手母国の意地と誇りを見せて初代優勝チームに。第2回大会は前回決勝で敗れたブラジルがグラウベ・フェイトーザ、エヴェルトン・テイシェイラの2大エースを擁して優勝した。また、2008年5月にはロシア・ハバロフスクで柔道形式の体重無差別の国際団体戦が実施され、ロシアチームが優勝している。
極真パリ国際空手道選手権大会
2002年3月にフランス・パリで開催された国際大会。ヨーロッパ、ロシア、日本、ブラジルなど世界16ヶ国から32名が参加し、体重無差別で争わた。会場となったパリ・ベルシー総合体育館は2万人の観客が集まり(予選5千人、決勝ラウンド1万5千人)、結果は優勝セルゲイ・オシポフ(ロシア)、準優勝エヴェルトン・テイシェイラ(ブラジル)準優勝、3位・足立慎史(日本)。
木山仁
2003年第8回世界大会チャンピオン。1974年1月9日、鹿児島県出身。15歳で極真会館鹿児島支部に入門し、支部長・竹隆光師範の指導で実力を開花させ、1997年第1回世界ウェイト制中量級優勝を皮切りに、2000年第32回、2001年第33回全日本大会連覇。世界ウェイト制大会は2001年第2回大会で軽重量級を制して2階級制覇。2003年には無差別の第8回世界大会で見事優勝を飾り、日本の王座奪回の立て役者となった。現在は、名古屋中央支部長として後進の指導にあたっており、2009年の第4回世界ウェイト制大会より、日本代表選手団の監督に就任。
極真会館審判審議委員会
競技大会での審判技術向上を目指し、2000年に発足。審判審議委員は審判資格の基準を設け、定期的に各地で講習会や資格テストを実施している。
極真祭
全国の極真会館会員相互の交流と親睦の場として1998年より実施されている大会。第1回大会は全国地区別団体戦だったが、その後全日本壮年・女子・大学生・型競技大会、全日本青少年大会など、様々な世代の会員が幅広く参加できるようにカテゴリーが広がっている。
劇画『空手バカ一代』
1971年5月より『少年マガジン』誌(講談社)に連載された大山倍達の半生をモデルにした梶原一騎原作の劇画(画は前半は、つのだじろう。後半は、影丸穣也)若き日の大山総裁の生き様がドラマチックに描かれており、全国に爆発的な"空手ブーム"を巻き起こした。大山倍達以外にも、有明省吾や芦原英幸など実在の空手家たちが登場。後半は世界大会以後まで話は続き、極真ファン必読の書であった。
ゴッドハンド
大山倍達総裁に冠せられたニックネーム。大山倍達は度々海外へわたって各地で空手のデモンストレーションを行ったが、特に1955年2月には、アメリカを振り出しに南米、ヨーロッパなどを回ってプロレスをはじめ各種の格闘技と対決。同時にビール壜斬り、ウィスキーの壜斬り、コーラ壜斬り、自然石割りなど手技(手刀)の演武が人気を呼び、人々から『ゴッドハンド』と称されるようになったのが由来だといわれている。
清澄山
千葉県鴨川市清澄にあり、山頂には開祖・日蓮が出家したといわれる古刹・清澄寺がある。大山倍達は、1948年4月から約1年6ヶ月にわたり、清澄山の山中で山籠り修行を敢行した。修行の最中に、一生涯空手家として生きる決心をしたといわれ、この地は『極真空手発祥の地』ともいわれる。現在、清澄寺門前の「ドライブイン重兵衛」の脇道を登った高台に極真空手発祥の地記念碑(2008年2月に新記念碑建立)が建てられている。
京都円山公会堂
1947年9月、日本全国から約100 人の空手家が集結し、戦後初の全日本空手道選手権大会(円心会主催)が開催されたといわれる会場。終戦以来、消息を絶っていた大山倍達がこの大会に出場し、寸止めの試合形式ながら実戦さながらの組手で他の選手を圧倒し、見事優勝を成し遂げた。この優勝により、一躍、空手界の風雲児となった大山倍達だが、古いしきたりを重んじる空手界からは以後、長きにわたり異端の目で見られることになった。京都市東山区にあり、現在の名称は円山音楽堂。

さ行

壮年国際空手道選手権大会
35歳以上の選手を対象に2001年に第1回大会を開催し、過去に3回行われている。35歳~39歳の部、40歳以上の部はウェイト制で軽量級(70kg以下)、中量級(80kg以下)、重量級(80kg超)の3階級に分かれ、特選無差別の部は35歳以上の全日本大会、もしくは世界大会に出場した選手を対象に体重無差別で争われる。
全日本ウェイト制空手道選手権大会
毎年初夏に大阪で開催され、階級は軽量級(65kg以下)、 中量級(75kg以下)軽重量級(85kg以下)、重量級(85kg超)の4階級で、秋に行 われる体重無差別の全日本選手権への登竜門として定着している。
ソ連ウクライナの演武会
1990年5月、ソビエト連邦ウクライナ共和国の首都キエフにて武道フェスティバルと称する様々な格闘技の演武会が開催され、極真空手も日本から約20名の代表団が遠征し参加。3日間合計6回にわたって型や試割りなどのデモンストレーションが行われ、毎回3千人を越す熱狂的な観客の声援に応えた。また、フェスティバルのハイライトは組手試合で、3階級で日ソ対抗戦が実現。後に世界大会に出場するクレメンチェフ、フェセンコ、ベキシェフらが出場した。
全アジア空手道選手権大会
アジア各国の持ち回りで毎年開催される歴史の古い選手権大会。日本でも1990年5月に北海道・札幌、2002年4月に九州・福岡で開催されている。
全日本青少年空手道選手権大会
幼年から高校生まで、18歳未満の選手が競う全国規模の選手権大会。1990年代に入り、少年部の生徒の増加とともに試合開催のニーズが増え、1993年と1994年に開催された首都圏少年部交流試合が発展して1995年4月に第1回大会が開催された。
全国強化選手委員会
1999年第7回世界大会でフランシスコ・フィリォが優勝し、4年後の王座奪回を目指して2000年1月に発足した日本選手育成のための特別委員会。全国地区別に強化委員を置き、定期的に強化稽古や強化合宿を行っている。
全世界ウェイト制空手道選手権大会
軽量級(-70kg級)・中量級(-80kg級)・軽重量級(-90kg級)・重量級(+90kg級)の4階級で行われる体重別の世界最高峰の選手権大会で、4年に一度、無差別の世界大会の中間の年に開催される。1997年4月に第1回大会が開催され、木山仁が中量級、フランシスコ・フィリォが重量級でそれぞれ優勝。第3回大会ではエヴェルトン・テイシェイラが重量級を制して、無差別世界大会制覇の足掛かりとした。木山は2001年の第2回大会で軽重量級を制して2階級制覇を達成。田中健太郎は軽重量級で第3回・第4回大会を連覇した。
世界女子空手道選手権大会
組手競技(体重別3階級)と型競技で争われる女子の最高峰の選手権大会。1996年1月に米国ニューヨークで第1回大会が開催され、当初は日本とニューヨークで2年に一度開催されていたが、2007年より毎年日本で開催されることになった。歴代の代表的なチャンピオンは、軽量級で3度優勝を誇るエワ・パウリコスカ(ポーランド)、2001年にエワを下して日本人として初めて優勝した江口美幸、ロシアのエレナ・ヴォロビヨワ、中量級で連覇を達成したアナスタシア・クリプノワ(ロシア)など。
全ヨーロッパ空手道選手権大会
ヨーロッパで最も権威と伝統のある選手権大会で、過去にアンディ・フグ、マイケル・トンプソン、ミッシェル・ウェーデル、最近ではエミル・コストフ、アルトゥール・ホヴァニシアン、ヤン・ソウクップ、アレハンドロ・ナバロらが活躍。以前は毎年春に体重別の大会が開催されていたが、体重別と無差別を分けている日本に倣って2000年より秋に無差別の大会を新設。現在はその2つの大会を欧州各国の持ち回りで開催している。
サウジアラビアのファイサル皇太子
1981年6月、サウジアラビアのファイサル皇太子が極真会館を訪れ、大山倍達総裁と会談。本部黒帯の演武を堪能し、指導員の派遣を要請した。
シャーラム・イラン皇太子夫妻
1974年5月、ホテル・オークラにおいて、シャーラム・イラン皇太子夫妻に演武を披露。皇太子には名誉二段が贈られた。
スペインのカルロス国王
1972年10月、当時皇太子だったスペインのカルロス国王が極真会館を訪問。

た行

チェチェン共和国にて国際親善試合
2004年7月14日、チェチェン共和国グーデルメス市で開催された『チェチェン共和国VS日本』のチーム対抗団体戦。ソ連崩壊後、永く独立紛争が続くチェチェンにおける国際親善試合は、極真会館が掲げる『世界平和、国際貢献』の主旨に沿うものであり、非常に意義のあるイベントであった。
直接打撃制(フルコンタクト)
第1回全日本大会の組手試合で採用された世界初のルール。従来の空手では攻撃を相手に直接当てることは禁止されてきたが、大山倍達総裁はボクシングやキックボクシングなどと比較研究を重ね、顔面を除いて攻撃を実際に相手に当てるという直接打撃制ルールを採用。古い空手界は「邪道空手」「殺人空手」と酷評したが、会場は超満員の観客で埋めつくされ、当時の空手専門誌はこの直接打撃制試合を次のように評した。「このような真剣試合は全空連規定の試合にはほとんど見られない死がすぐ隣にある。危険であるが故にこそ、ある種の美しさがある」
千葉・館山
清澄山での1年6ヶ月におよぶ修行から下山した大山倍達が、1950年11月にふもとの館山で初めて牛と対決。対決に際し、屠殺場の側に居住し、牛の生態を観察しながら修練を積んだといわれる。館山では、牛47頭を倒し、うち4頭は即死。

な行

ネパールのディエンドラ皇太子
1983年12月、本部道場を訪れ演武会を堪能。

は行

百人組手
一人で百人の相手と順番に組手を行う連続組手。柔道の20人掛け、30人掛けからヒントを得て若き日の大山倍達が試みたのが最初といわれる。完遂者は松井章奎館長、フランシスコ・フィリォら数名の限られた者しかおらず、極真空手最大の難行苦行である。2009年3月には総本部正指導員のアルトゥール・ホヴァニシアンが挑戦。
邦画『お父さんのバックドロップ』
中島らも原作の小説『お父さんのバックドロップ』(集英社文庫)が映画化され、極真関係者が多数出演したことで話題になった。物語のモデルとなったのはアントニオ猪木VSウィリー・ウイリアムスの異種格闘技戦で、主人公のプロレスラー(宇梶剛士)と対戦する空手家役にエヴェルトン・テイシェイラが抜てきされた。映画には、テイシェイラを鍛える鬼コーチに磯部清次師範、成嶋竜や入澤群といった総本部スタッフも登場している。
フランシスコ・フィリォ
1999年第7回世界大会チャンピオン。1971年1月10日、ブラジル・バイア州出身。89年に18歳で南米大会を初制覇。91年11月の第5回世界大会に南米のエースとして出場し、前回大会準優勝者アンディ・フグから左上段廻し蹴りで一本勝ちを奪うなどセンセーショナルな日本デビューを飾る。ブラジル支部長・磯部清次師範とのマンツーマン稽古で実力を向上させ、95年第6回世界大会3位、97年第1回世界ウェイト制大会重量級優勝。97年7月よりK-1に参戦し、前年優勝のアンディ・フグに1回KO勝ちという衝撃のデビュー。K-1ワールドGPは、97年3位。アンディ戦以降も、ピーター・アーツ、アーネスト・ホーストといった歴代王者を撃破。99年11月、空手に復帰して第7回世界大会に出場。決勝で数見肇を破り、無差別の世界大会で外国人として初めてチャンピオンの座に就く。K-1は00年3位、01年準優勝。05年の『5.30一撃』のレミー・ボンヤスキー戦(判定勝ち)を最後に現役引退。K-1戦績は25戦16勝7敗9KO。現在は極真会館ブラジル支部で支部長としてアンドリュース・ナカハラら後進の指導にあたっている。
フランス空母ジャンヌダルク号
1985年2月、東京湾晴海埠頭に停泊中のフランス海軍のヘリコプター航空母艦ジャンヌ・ダルク号の艦内で歓迎演武会が開かれた。松井章奎館長、郷田勇三師範、山田雅稔師範、高見成昭師範など極真の精鋭約30名が、氷柱割り、バット折り、模範組手など迫力の演武を披露して喝采を浴びた。
ハンガリー空手道選手権大会
ハンガリー・ブダペストで開催される格式ある選手権大会。以前は"イブツ大山カップ"の愛称で呼ばれ、1983年6月の第1回大会は冷戦下の共産圏で初めての極真の大会開催だった。1980年代にはアンディ・フグ、マイケル・トンプソン、ミッシェル・ウェーデル、ニコラス・コスタら欧州を代表する強豪が一同に会し、軽量級・中量級・重量級の3階級で覇を競った。

ま行

松井章奎
国際空手道連盟極真会館館長。1963年1月15日、東京都出身。13歳で極真会館千葉県北支部に入門し、加藤重夫先生の指導で才能を開花させ、わずか1年半で黒帯取得。その後、総本部に移籍し、17歳て全日本大会にデビューしてベスト4入賞。全日本大会、世界大会は合計8回出場し、優勝3回、3位3回、4位1回、8位1回という輝かしい成績を残す。85年第17回全日本大会~87年第4回世界大会まで3連覇達成。86年5月には極真史上3人目(当時)となる百人組手完遂。94年5月、大山倍達総裁の遺志により、極真会館館長となる。
毛利松平
愛媛県出身の政治家で、1958年衆議院選挙に初当選し、以来連続9回当選。外務政務次官、自民党副幹事長を経て1974年には環境庁長官を歴任。柔道7段、空手5段、合気道免許皆伝と政界随一の武道の達人として知られ、1980年には日本武道館理事長に就任。1964年の極真会館発足時に国際空手道連盟極真会館副会長を務め、極真会館総本部建設に尽力。1975年より、極真会館会長に就任し、極真会館の発展に多大な貢献を果たした。1985年5月24日、心筋梗塞て死去。享年71歳。
目白野天道場
1954年、東京・目白にあった自宅の庭で大山倍達が空手の稽古をしていると、自然に近所の子供たちや噂を聞きつけた人が集まって道場のような形になった。この頃の弟子が、待田京介、安田英治、黒崎健時、水島健二、石橋雅史らである。
身延山
山梨県南巨摩郡身延町にあり、1946年10月頃から大山倍達が山籠り修行を行った。戦後、横暴な行為を繰り返す進駐軍に怒り、米兵に制裁を加えて追われる身となった大山倍達は空手の修行をかねて身延山に入山したといわれている。

や行

ら行

わ行

アルファベット数字

『WHAT IS KARATE? 』
日貿出版社から発行された英文による初めての空手技術指導書。海外でベストセラーとなり、日本で発行された海外向け書籍として当時の記録を塗り替える。『THIS IS KARATE』『ADVANCED KARATE 』『VITAL KARATE』など続編も刊行された。