松井館長の閑話休題

 今年2014年は極真会館が創立50周年を迎える年です。そして極真会館の創始者である大山倍達総裁が亡くなって20年を迎える年でもあり、大きな節目の年ということになります。一言で節目といいますが、細かく見れば毎年開催される全日本大会も、4年に一度の世界大会も、また昨今は女子、壮年、青少年等の大会も盛んに開催されていますから、その一つ一つが皆さんにとっての節目になっているとも言えるかもしれません。

 また、大会や競技会は極真会館の活動の象徴的部分ですし、今年11月に開催される全日本大会は50周年を迎える年に行われることと、来年の世界大会の選抜大会になるということもあって、極真会館にとってはこれも一つの節目になります。

 極真会館創立50周年と言いますが、私自身は1976年に入門しましたから、直接的な関わりを持つのは1976年以降の38年間になります。私は中学生の時に極真会館の千葉県北支部に入門し、高校に入ってから本部にも出稽古に通うようになりました。そして大学1年から正式に本部に移籍して指導員になったのですが、当時は大山総裁と日常的に触れ合う機会がありました。

 ところが最近の若い選手は、大山総裁が亡くなられて20年が経過し、我々のように大山総裁を身近に感じることはないと思います。これも時代の流れですから、ある意味仕方のないことではありますが、どちらかというと『過去の偉人』として受け入れているのだろうという感覚があります。若い選手や少年部の子どもたちにも大山総裁をもっと身近に感じてほしいという思いもあるので、今回は大山総裁の話も含めて極真会館創立50周年にちなんだお話をさせていただきたいと思います。

 極真会館の前身は大山道場という一つの町道場でした。もともとは大山総裁が剛柔流や松濤館の空手を修行し、剛柔流の山口剛玄先生の道場で師範代をされて、その後独立して目白の自宅庭に野天道場を興したことから始まり、池袋の立教大学裏のバレエスタジオを借りて大山道場がスタートしました。当時は色々な流派の人たちが稽古に来て、その中に学習院で松濤館空手をやられていた安田栄治先生、日大芸術学部の剛柔流空手部でキックボクシングの沢村忠さんの先輩でもある石橋雅史先生、思想家の佐郷屋留雄先生の紹介で来られた黒崎健時先生、この安田先生、石橋先生、黒崎先生の3名が大山道場時代の師範代となって稽古をしていました。

 色々な流派の人が稽古に来る中で、「空手に流派はない」という意識で、そういった個性的で特徴のある先輩方が様々なものを持ち寄って指導するので、その時代の多くの技術や個性がミックスされたんですね。私が最初に空手を教えていただいた加藤重夫先生に聞いた話では、当時は大会や試合がなかったので稽古では顔面も叩くからタオルを手に巻いて組手をしたと言います。それは相手を傷つけないためというよりも、叩いて歯で拳を切らないためで、口には雑菌が多いのでちょっとでも切れるとバイ菌が入って化膿して腫れてしまうからですね。だから拳にタオルを巻きつけてやっていたよという話をよく聞かされました。

 また、当時は金的も蹴るので今とはまったく構えが違っていて、後屈立ちで片手は金的の前に置いて、片手は顔面をカバーするという構えで立っていた人が多かったと言いますね。そういった人たちの中に大山茂師範や大山泰彦師範がいたり、中村忠師範、現在極真会館最高顧問の郷田勇三師範、芦原英幸師範がいて、劇画『空手バカ一代』の中に“有明省吾”という名前で登場する春山一郎という先輩がいました。他にも“大沢昇”のリングネームでキックで活躍した藤平昭雄先輩など個性的で特徴的な人が多かったんですね。

 そして1964年に、当時は画期的だと思いますが多くの方々の尽力や協力があって旧極真会館総本部という地上4階・地下1階のビルを建設しました。その竣工と同時に「国際空手道連盟 極真会館」が正式に発足したわけです。その第1期でもあり大山道場から極真会館に移行する時に稽古していた時代に、士道館の添野義二館長、第1回全日本チャンピオンの山崎照朝先輩、そして及川宏先輩がいて、この3名は初期のまだ大会が行われていない時代に総裁の命令を受けて極真ジム所属の“極真三羽ガラス”と言われてキックの試合に出ていました。

 これらの先輩たちがキックの試合で活躍しているのを見て、それなら空手でも実際に攻撃を当てて試合をしてもいいだろうというので開催したのが1969年の第1回全日本選手権大会だったと聞いています。ご存知のように山崎先輩が優勝、添野館長が準優勝でしたが、当時は大山茂師範や中村忠師範や芦原英幸師範の全盛時代で、添野館長いわく「こういう先輩方が出場していたら自分たちの優勝や準優勝はなかった。その時期、我々は道場ではこてんぱんにやられていたのだから」と。山崎先輩は「自分たちは極真会館の看板を守るために必死で戦った。とにかく他流派に負けてはいけないという思いでやったんだ」と言われていました。

 当時の全日本大会は、第1回大会から4回大会の頃までは32名の出場者が3ブロックに分かれて勝ち上がり、その3名がリーグ戦で決勝を戦う形式で、後に40数名、64名、128名という現在の数字になっていきました。1975年に通称“空手オリンピック”と言われる第1回世界選手権大会が開催されましたが、この大会は128名の出場で2日間で行われました。そこから4年毎に世界大会を開催して、どんどん規模や参加人数が大きくなって最大の時は250名近い選手が集まる大会になり、今でも200名前後がエントリーする極真会館の最大行事となっています。
(後編に続く)

国際空手道連盟 極真会館
館長 松井章圭