松井館長の閑話休題

人類発祥に起源を持つ武道は、本来は「生死」を分けるものであり、「勝負」ではない。もし勝負というならば、まさに勝負のついた瞬間に生死を分けるものである。そして、積極的に楽しもうということとはまったく別の、生きるために受動的にせざるを得ないというところから始まったものである。

つまり空手や武道の技術は、いわば「戦わないための戦う技術」。抑止力的な技術であり、闘争術である。そこにある礼儀や秩序というものは、できるならば戦わなくてすむようにという、それもまた生きるための一つの方法であったのだろう。

そのときに場を尊重する気持ちや相手を尊敬するということを具体的に体現し、しきたり化したものが「礼儀」として今に残っている。それらの起源を知り、成り立ちを知った上で、広い意味での大義を心に留めて格闘競技に励むか励まないかでは大きな差が出てくる。

また、そうであるからこそ、競技の頂点がその道の頂点にあらず、ということも言っておきたい。これは武道を志し、武道をたしなむすべての者は意識しておくべきことである。

「極真空手は勝負偏重主義である。勝負においては親、兄弟と向かい合っても勝たなければならない」と言うけれども、その価値が例えば試合における表面的な勝負によってのみ、その勝敗が語られるものであるか否かと言えば、それは明らかに違う。

一つの勝負がついたその瞬間にまた新たな勝負が生まれて、まったく質の違う勝負に挑まなければならない。そして最終的に、その人がいかに生きたかというところに勝敗を見ていくことになる。人生をいかに生きるのかというところまで、常に意識して勝負に臨むのが、大山総裁が言われたいわゆる「勝負偏重主義」の本来の意味ではないか。

単に相手との勝負、大会の成績などの目先の勝負にのみ囚われず、勝負の本質を意識して、その真の意味を理解することが「勝負偏重主義」の極みではないかと思う。

そうであるならば、試合の場では常にその姿を問われることになる。勝者であっても敗者であっても、「負けて挫けず、勝って驕らず」という精神、場を尊重して相手を尊敬するという精神、それは「押忍」の言葉が表すように、「尊敬、感謝、忍耐」そのものである。清々しく、姿勢よくそこに臨むのが、競技の中で武道を体現するということである。

これらのことを念頭に置いて、スポーツと武道は根本的に違うものだということを、それを志す我々自身が明確に認知しておかなければならないのである

国際空手道連盟 極真会館
館長 松井章圭