松井館長の閑話休題

かつて大山倍達総裁は、「スポーツは楽しむためにやるものである。しかし武道は自分に厳しく他人に優しくするものである」と言われたことがある。私は長年総裁に師事する中で、多くの事をこの一文から学んだ。

極真会館を引き継いだ後、私が総裁の教えを多くの人に伝える立場になったときに、総裁はこの言葉から何を表現したかったのだろうかと、ふと考えたことがある。一つには武道とスポーツは発祥の起源がまったく異なるということが言える。

一説によると「スポーツ」は16世紀の英国でできた言葉で、積極的に楽しむということを表した言葉だという。それはゲームであり、勝敗を競い合い、ゲームが終わればノーサイドでお互いに友好を深める。これはスポーツの良し悪し、武道の良し悪し、またスポーツと武道の価値を比べる話ではないが、その明確な違いを意識して我々は修行に励まなければならない。これはまさに精神的なものであって、現代社会にあってスポーツはルールを守って競い合う競技であり、武道もまた格闘競技として発展し、ルールに基づいて勝敗を競うという意味では外見的にはまったく変わるものではない。一般のスポーツ競技と格闘競技の表面的な違いは、勝敗を導く対象が、得点や距離やタイムであるか、もしくは人であるかというだけである。

明確な違いとは、武道は人類発祥のときにその起源はさかのぼる。自分が生きるために、食べるために、また家族や集落を守るために、痛くてつらくて苦しくて、できればやりたくないけれども、生きるためにせざるを得ないというところで存在したのが「闘争」であり、そこに「ゲーム」性はなく、勝敗ではなく生死を問われるのである。

しかし、人間は英知のある動物であるから、自分が嫌なことをする、積極的にやりたくないことをやるときには、それに対する道義付けが必要になる。また場合によっては自分と同じ対象の人間を殺めなければいけないというときに、大義名分が必要であるということは、必然的にそこで生まれた思想だろう。それがより体系化して精神論にまで発展したものが武道精神、武士道精神と呼ばれるものである。

では武道における「勝負」には、一体どういう意味があるのか。このことについて、次回は述べていきたいと思う。

国際空手道連盟 極真会館
館長 松井章圭